トルファン(2)---シルクロードの分岐点
古の陸のシルクロードは長安から敦煌・トルファンまでの河西回廊とトルファンからの3つのルート(天山北路、天山南路、西域南路)に大別できる。
敦煌(ここまでは唐の内)、ここを過ぎると一面の砂漠、火焔山を通過しトルファンへ
見渡す限り赤い土漠、鳥も獣もいけるものなし、遠くに火焔山富士が見える
天山北路-----トルファン、烏魯木斉(ウルムチ)、クイトウン、イーニン----カザフスタン
天山南路---トルファン、コルラ、クチャ、アスク、カシュガル、タシュクルガン、---パキスタン
山の頂は万年雪に覆われた天山山脈がどこまでも続く
天山山脈の南側、タクラマカン砂漠の北側を通る真ん中のシルクロード
西域南路----トルファン、楼蘭、チャルクリク、ニヤ、ホータン、ヤルカンド、カシュガル、サマルカンド
タクラマカン砂漠の南北には4000m以上の崑崙山脈、パミール高原がそびえ立
現代のシルクロード(一帯一路)
西安、敦煌、トルファン、カザフスタン、カスピ海、ポーランド、ドイツにつながる高速道路、シベリア鉄道経由で欧州各国に繋がる国際鉄道が新疆高速鉄道と並行して走り多くの貨物、人の往来が盛んである。今回車窓から多くのコンテナや車搬送車(一台に約10台の乗用車を積んで)が高速道路をカザフスタンに向かって走っているのを見た。恐らく1日に100台以上の乗用車がこの道を通って中東、欧州に搬送されているだろう。
このルートの他にカシュガル、パキスタン、サマルカンド、イスタンブール経由で欧州への高速道路(一帯一路の一部)を使って多くの中国製品(家電製品、乗用車、日用雑貨など)が大量に輸出されている。
吐魯蕃(トルファン)----中国版新幹線
敦煌からバスで約2時間で柳園駅に到着柳園からトルファンまで新疆高速鉄道(CRH)(日本の新幹線にあたる)で4時間弱で到着。
CRH380型最高速度時速280km/hr程度
中国の新幹線は此処10年急速に発達し
「四縦四横」と呼ばれる南北4幹線、東西4幹線のほか都市間新幹線8路線が営業運転しており、新幹線だけの総延長距離は地球一周以上となっている。今回乗車の限りではスピード、振動、乗り心地、運行時間の正確さなど日本の新幹線に比べて遜色は見られなかった。
日本の新幹線製造台数の数倍の新幹線車両、軌道を作った実績より技術的にも完全に追いつかれ、追い越されたように思う。細かい点では駅などで完全バリアフリーにはなっていないなど改善の余地は残っているが細かい点は後回しとし二、三年で大枠をどんどん進めていく(日本のように計画から完成迄に10年近くかかることはない)スピード.・実力は恐ろしい。
車窓からは一面の砂漠(正確には土漠か?)が延々と四時間以上も続くが、
所々に太陽光発電(数千台設置)、見渡す限りの風力発電(数百基)、石油掘削基地及びその精錬基地や火力発電所(天然ガスが主体)が
突然現れ新しい高層ビルが林立した新設都市が見えた。
中国の電力事情に余裕がある事が隙間見られた気がした。新疆ウイグル自治区は中国エネルギー供給基地としての役割も担っている。
敦煌(5)---唐代の旅立ちの詩
敦煌は唐代西域との国境、ここから先に出かけたらもう帰ることはできないかもの思いで詠んだ詩の中から三首を上げる
【 凉州词】 王思翰
葡萄美酒夜光杯 欲欲琵琶马上催
醉卧沙场君莫笑 古来征战几人回
( 私の感じたところを訳してみた)
葡萄の美酒を夜光杯になみなみ注ぐ
馬の上で琵琶を奏でてみたい
砂漠で酔い眠ったとて笑わないでくれ
昔から此処から遠征に出かけ何人が帰ってこられたというのか
[玉門関にて李白が詠んだ詩]
漢は下る白塔の道 胡はうがつ青海の湾
由来征戦の地 見ず人の帰るを
[送元二使安西】 王 维
(王维が今から西域に出向く友人元ニを渭水のほとりの城下で別れを惜しんで詠んだ詩)
渭城朝雨浥轻尘 客舍青青柳色新
劝君更尽一杯酒 西出阳关无故人
(自分流に翻訳)
渭城の朝雨軽塵を潤し、客舎青青と柳色新たなり、君に勧める更に尽くせ一杯の酒、西の彼方陽関を出ずれば知人なからん
敦煌(3)---莫高窟
敦煌都心から東南25kmに位置する鳴沙山の東の断崖に600あまりの洞窟が彫られその中に幾多の仏像彫刻や壁画が残されており、Unescoの世界文化遺産に認定されている。366年頃から掘り始められその後1000年に渡って掘り続けられた。陸のシルクロードの衰退と共に忘れられた存在であったが1900年に偶然16窟の側道の隠し部屋17窟(蔵経窟)が発見され中から一万点にも及ぶ貴重な経典などの文献が発見され一躍注目を浴びることとなった。残念なことにこれらの経典などの殆どがフランス人スタイン他に持っていかれ今ここには何も残っていない。
鎌倉の大仏とどちらが大きいか?
莫高窟のシンボル96窟、北の大仏と言われる9層ぶち抜きの大仏が収まっている。則天武后の発願で自身をモデルとして作らせたと言われている。
東の断崖に約600の窟が掘られている
275窟「交脚弥勒菩薩」
壁画には沢山の飛天が描かれている
右側壁に隠し部屋(蔵経洞)を設けた16、17窟、この祠の中に数千点にも及ぶ経典など貴重な資料が隠されていたが、スタイン始め多くの列強諸国の探検家に持ち去られ今この祠には何も残っていない。
敦煌(2)---駱駝に乗って鳴砂山、月牙泉をめぐる
街の中心からほんの数kmはなれると砂漠が広がる。鳴砂山の観光入場門を通過すると沢山の駱駝(恐らく200匹以上の観光用駱駝)が待っている。ここの駱駝はアフリカの1コブ駱駝と違い2コブ駱駝で乗り心地がよい。百匹以上の駱駝が座っている様は壮観だが、少し臭い。駱駝に乗り隊列を組んで約1時間半砂漠を旅した。
鳴砂山の砂は他の砂漠と異なりとても細かい砂だ。風が吹くと砂がぶつかり合いキュー、キューと鳴のがこの山の名前の由来となった。
駱駝の背は思ったより高く上から見下ろすと違った景色が見える。
鳴砂山の麓になぜか先年も前から水が絶えたことがないと言われている三日月型の小さな泉「月牙泉」がある。
月牙泉の寺が遠方に見える。
鳴砂山を登っている人がアリのように見える。てっぺんまで登るのは約15分息も絶え絶えだが下りは五分で降りられる。