ウルムチ(烏魯木斉)---美しい近代都市に発展

ウルムチ新疆ウイグル自治区の首府であり、天山北路の中心都市である。一帯一路政策が打ち出されて中近東、欧州への中継都市として、ここ三から五年で大いに開発が進み人口250万の都市(市区人口140万)なった。

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ウルムチとはウイグル語で「美しい牧場」という意味で、清代までは数十万人の砂漠のオアシス都市だったが、近年「一帯一路」の重要中継基地又石油、鉱物の発掘で賑わいを見せている。但しここは中国ではあるがウイグル族、カザフ族、回族などイスラム教徒が多く全く異国の感がある。夜マッサージ店に出かけたが、お姉さんたち漢民族もいたがウイグル人カザフ人が多かった。朝晩、年間の温度差が大きく(夏MAX40度、冬MINー30度)とても乾燥している。9月昼は28度、夜13度でした。来年には地下鉄も開通するそうだ。そしてテロ対策のためか街のいたるところにパトカー、公安の駐在所がありホテル、レストランに入るにも荷物検査があり、平和ボケした我々日本人には驚きであった。

トルファン(2)---シルクロードの分岐点

古の陸のシルクロード長安から敦煌トルファンまでの河西回廊とトルファンからの3つのルート(天山北路、天山南路、西域南路)に大別できる。

河西回廊----長安(西安)、蘭州、嘉峪関、        

   敦煌(ここまでは唐の内)、ここを過ぎると一面の砂漠、火焔山を通過しトルファン

 

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見渡す限り赤い土漠、鳥も獣もいけるものなし、遠くに火焔山富士が見える

天山北路-----トルファン、烏魯木斉(ウルムチ)、クイトウン、イーニン----カザフスタン

今回はこの天山山脈北の通路、天山北路でウルムチ迄訪れた

天山南路---トルファン、コルラ、クチャ、アスク、カシュガル、タシュクルガン、---パキスタン

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山の頂は万年雪に覆われた天山山脈がどこまでも続く

天山山脈の南側、タクラマカン砂漠の北側を通る真ん中のシルクロード

西域南路----トルファン楼蘭、チャルクリク、ニヤ、ホータン、ヤルカンド、カシュガルサマルカンド

タクラマカン砂漠の南北には4000m以上の崑崙山脈パミール高原がそびえ立f:id:moriwa14911:20181014192836j:image

現代のシルクロード(一帯一路)

西安敦煌トルファンカザフスタンカスピ海ポーランド、ドイツにつながる高速道路、シベリア鉄道経由で欧州各国に繋がる国際鉄道が新疆高速鉄道と並行して走り多くの貨物、人の往来が盛んである。今回車窓から多くのコンテナや車搬送車(一台に約10台の乗用車を積んで)が高速道路をカザフスタンに向かって走っているのを見た。恐らく1日に100台以上の乗用車がこの道を通って中東、欧州に搬送されているだろう。

このルートの他にカシュガルパキスタンサマルカンドイスタンブール経由で欧州への高速道路(一帯一路の一部)を使って多くの中国製品(家電製品、乗用車、日用雑貨など)が大量に輸出されている。

 

 

 

 

吐魯蕃(トルファン)----中国版新幹線

敦煌からバスで約2時間で柳園駅に到着柳園からトルファンまで新疆高速鉄道(CRH)(日本の新幹線にあたる)で4時間弱で到着。

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CRH380型最高速度時速280km/hr程度

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中国の新幹線は此処10年急速に発達し

「四縦四横」と呼ばれる南北4幹線、東西4幹線のほか都市間新幹線8路線が営業運転しており、新幹線だけの総延長距離は地球一周以上となっている。今回乗車の限りではスピード、振動、乗り心地、運行時間の正確さなど日本の新幹線に比べて遜色は見られなかった。

日本の新幹線製造台数の数倍の新幹線車両、軌道を作った実績より技術的にも完全に追いつかれ、追い越されたように思う。細かい点では駅などで完全バリアフリーにはなっていないなど改善の余地は残っているが細かい点は後回しとし二、三年で大枠をどんどん進めていく(日本のように計画から完成迄に10年近くかかることはない)スピード.・実力は恐ろしい。

車窓からは一面の砂漠(正確には土漠か?)が延々と四時間以上も続くが、

f:id:moriwa14911:20181019110617j:image所々に太陽光発電(数千台設置)、見渡す限りの風力発電(数百基)、石油掘削基地及びその精錬基地や火力発電所(天然ガスが主体)が

f:id:moriwa14911:20181019110703j:image突然現れ新しい高層ビルが林立した新設都市が見えた。

f:id:moriwa14911:20181019111059j:image中国の電力事情に余裕がある事が隙間見られた気がした。新疆ウイグル自治区は中国エネルギー供給基地としての役割も担っている。

敦煌(5)---唐代の旅立ちの詩

敦煌は唐代西域との国境、ここから先に出かけたらもう帰ることはできないかもの思いで詠んだ詩の中から三首を上げる

 

【 凉州词】        王思翰

葡萄美酒夜光杯  欲欲琵琶马上催

醉卧沙场君莫笑  古来征战几人回

(  私の感じたところを訳してみた)

葡萄の美酒を夜光杯になみなみ注ぐ

馬の上で琵琶を奏でてみたい

砂漠で酔い眠ったとて笑わないでくれ

昔から此処から遠征に出かけ何人が帰ってこられたというのか

 

[玉門関にて李白が詠んだ詩]

漢は下る白塔の道  胡はうがつ青海の湾

由来征戦の地  見ず人の帰るを

 

[送元二使安西】      王 维

(王维が今から西域に出向く友人元ニを渭水のほとりの城下で別れを惜しんで詠んだ詩)

渭城朝雨浥轻尘 客舍青青柳色新

劝君更尽一杯酒 西出阳关无故人

(自分流に翻訳)

渭城の朝雨軽塵を潤し、客舎青青と柳色新たなり、君に勧める更に尽くせ一杯の酒、西の彼方陽関を出ずれば知人なからん

 

 

敦煌(4)---陽関と敦煌博物館と白馬寺

敦煌から西に30kmに玉門関と並んで重要だった軍事・通商の関門となっていた陽関の狼煙台が見える。

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f:id:moriwa14911:20181012214738j:image曽ての要所も今は砂漠の中にぽつんと狼煙台だけ残っている。

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三年前に新たに作られた敦煌市博物館
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白馬塔---鳩摩羅什がインドからの経典を唐の都に運ぶ途中、経典を運んできた白馬がこの地で死んだ。その供養のため塔を建て供養したもの。
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白馬寺の周りには白揚樹

敦煌(3)---莫高窟

敦煌都心から東南25kmに位置する鳴沙山の東の断崖に600あまりの洞窟が彫られその中に幾多の仏像彫刻や壁画が残されており、Unescoの世界文化遺産に認定されている。366年頃から掘り始められその後1000年に渡って掘り続けられた。陸のシルクロードの衰退と共に忘れられた存在であったが1900年に偶然16窟の側道の隠し部屋17窟(蔵経窟)が発見され中から一万点にも及ぶ貴重な経典などの文献が発見され一躍注目を浴びることとなった。残念なことにこれらの経典などの殆どがフランス人スタイン他に持っていかれ今ここには何も残っていない。f:id:moriwa14911:20181012164347j:image

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鎌倉の大仏とどちらが大きいか?

莫高窟のシンボル96窟、北の大仏と言われる9層ぶち抜きの大仏が収まっている。則天武后の発願で自身をモデルとして作らせたと言われている。
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東の断崖に約600の窟が掘られている
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275窟「交脚弥勒菩薩
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壁画には沢山の飛天が描かれている

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右側壁に隠し部屋(蔵経洞)を設けた16、17窟、この祠の中に数千点にも及ぶ経典など貴重な資料が隠されていたが、スタイン始め多くの列強諸国の探検家に持ち去られ今この祠には何も残っていない。