敦煌(4)---陽関と敦煌博物館と白馬寺

敦煌から西に30kmに玉門関と並んで重要だった軍事・通商の関門となっていた陽関の狼煙台が見える。

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f:id:moriwa14911:20181012214738j:image曽ての要所も今は砂漠の中にぽつんと狼煙台だけ残っている。

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三年前に新たに作られた敦煌市博物館
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白馬塔---鳩摩羅什がインドからの経典を唐の都に運ぶ途中、経典を運んできた白馬がこの地で死んだ。その供養のため塔を建て供養したもの。
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白馬寺の周りには白揚樹

敦煌(3)---莫高窟

敦煌都心から東南25kmに位置する鳴沙山の東の断崖に600あまりの洞窟が彫られその中に幾多の仏像彫刻や壁画が残されており、Unescoの世界文化遺産に認定されている。366年頃から掘り始められその後1000年に渡って掘り続けられた。陸のシルクロードの衰退と共に忘れられた存在であったが1900年に偶然16窟の側道の隠し部屋17窟(蔵経窟)が発見され中から一万点にも及ぶ貴重な経典などの文献が発見され一躍注目を浴びることとなった。残念なことにこれらの経典などの殆どがフランス人スタイン他に持っていかれ今ここには何も残っていない。f:id:moriwa14911:20181012164347j:image

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鎌倉の大仏とどちらが大きいか?

莫高窟のシンボル96窟、北の大仏と言われる9層ぶち抜きの大仏が収まっている。則天武后の発願で自身をモデルとして作らせたと言われている。
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東の断崖に約600の窟が掘られている
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275窟「交脚弥勒菩薩
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壁画には沢山の飛天が描かれている

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右側壁に隠し部屋(蔵経洞)を設けた16、17窟、この祠の中に数千点にも及ぶ経典など貴重な資料が隠されていたが、スタイン始め多くの列強諸国の探検家に持ち去られ今この祠には何も残っていない。

敦煌(2)---駱駝に乗って鳴砂山、月牙泉をめぐる

街の中心からほんの数kmはなれると砂漠が広がる。鳴砂山の観光入場門を通過すると沢山の駱駝(恐らく200匹以上の観光用駱駝)が待っている。ここの駱駝はアフリカの1コブ駱駝と違い2コブ駱駝で乗り心地がよい。百匹以上の駱駝が座っている様は壮観だが、少し臭い。駱駝に乗り隊列を組んで約1時間半砂漠を旅した。

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鳴砂山の砂は他の砂漠と異なりとても細かい砂だ。風が吹くと砂がぶつかり合いキュー、キューと鳴のがこの山の名前の由来となった。
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駱駝の背は思ったより高く上から見下ろすと違った景色が見える。

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鳴砂山の麓になぜか先年も前から水が絶えたことがないと言われている三日月型の小さな泉「月牙泉」がある。
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月牙泉の寺が遠方に見える。
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鳴砂山を登っている人がアリのように見える。てっぺんまで登るのは約15分息も絶え絶えだが下りは五分で降りられる。
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敦煌---古のシルクロード中国と西域の境界にあるオアシス都市

西安を12:10発のMU2215便(東方航空)に乗り14:45に敦煌に着いた。古の旅人が数週間かかった河西回廊を約2時間半で一飛びだ。唐の時代には西域と中国の境界の関所の街としてまたシルクロードの分岐点(天山北路、天山南路、西域南廊)の街として東西文化の交流点として栄えた。シルクロードの衰退と共に街は衰えたが、20世紀初期に莫高窟での大量の古典資料が発見され再び日の目を見るようになった。しかし観光以外の産業が発達しておらず、人口13万人のこじんまりした街である。それにもかかわらずここもこの3年の西部大開発の波に乗り、街が大幅に整備され綺麗になり、観光施設も整備された。

西安(5)---目覚ましい発展

西安には20年前、10年前、5年前と過去3度訪れたが、ここ三年の発展(習近平指導体制下、新市長になってから?)には驚くものがある。今迄の印象は薄暗い空、薄汚れた街並み、至る所修理中の狭い道路であったが、今回は見違えるほど発展していた。近郊には高層ビルが林立し、人口250万から800万以上の街となり、直轄市(北京、上海などの)になかまいりする勢いで
高速道路整備され、地下鉄(1、2号線)が開通、文化遺産保護(博物館整備)など三年間でよくここまで発展できたと思う。歴史・古き文化を尊び急速に近代化を計って現代版シルクロード(一帯一路)起点にふさわしい街となった。

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250万都市西安の街を望む
f:id:moriwa14911:20181010151448j:imageシルクロードの出発点を記念して城郭の真ん中に丝绸之路起点群像が設けられた。
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砂漠の商人、キャラバン群像。ラクダを引く老人の後に様々な国の商人がラクダに乗って西安を出発しようとしている。
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回坊風情街で知り合った回族の乙女

西安名物餃子及び刀削面

街の中心にあり外国人向けの餃子店「徳発長」が特に有名。餃子は水餃子、蒸し餃子、揚げ餃子が主体。西安では主食で一人20から30個食べる。

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今回は食べるチャンスが無かったが次回は是非挑戦して見たい。

 

西安(4)--唐歌舞ショウ及び西安名物餃子

唐歌舞ショウ

夕食後8時公演の「唐王朝の華やかな朝廷の物語」を歌舞(オペラ風)にしたショウを見学しに小雁塔近くの「唐楽宮」に出かけた。約1時間の公演だが専属楽団の生演奏で飲み物(ビールなど)が付いて「かぶりつき席」一人約4000円。すごく華やかな舞台でナイトライフの楽しみとしてオススメ。

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女優が履いている下駄まで当時のものを再現しており驚いた
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西安名物餃子

西安では米を食べるより麦を主食としてきたため麺、包子、餃子の食文化が発展。中でも餃子が最も好まれた。餃子は水餃子、蒸し餃子が主体でその種類も100種以上に上る。一人で20から30個食べる。

市内には数え切れないほどの餃子店があるが、老舗で外国人向けには「徳発長餃子館」(鐘鼓楼広場店、小雁塔店が有名)

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今回は食べるチャンスかかったが、西安は餃子の他に刀削面と言う麺も有名。

 

 

 

西安(3)ーー大雁塔、青龍寺

大雁塔

慈恩寺境内にある。インドより玄奘三蔵が持ち帰った経典翻訳600部あまりを納めるために唐代652年に建立された。則天武后の時代には10層の造りだったが、戦火に会い今は7層(高さ74メートル)。

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f:id:moriwa14911:20181010104543j:image7層の最上階まで階段で登ることができる。但し有料登るのはかなりしんどい

f:id:moriwa14911:20181010104618j:image千手観音菩薩
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青龍寺(霊感寺)

西安中心地より南東に約3km、唐代に隆盛を極め東南アジア諸国から修業僧が多く学んだ。空海、円行他がここで学ぶ。空海がここで三年間修行し帰国し、高野山真言密教を創立した。四国88ヶ所巡りの番外(0番霊所)とされていて多くの日本のお遍路さんが訪れる。f:id:moriwa14911:20181009223858j:image

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白檀の線香と御朱印帳を購入

f:id:moriwa14911:20181009223850j:image空海と師事した惠果の二人が印刷された参拝記念証にサインしてもらえる

f:id:moriwa14911:20181010120213j:image寺の境内には多くの桜の木や柳の木があり普段は静寂感漂う

f:id:moriwa14911:20181010120238j:image88札所巡りの番外(〇番札所)の記念碑前でポーズ

 

1086年頃寺は衰退し漸次廃墟と化す。1980年頃中国西安市と日本の真言宗徒の協力で再建された。四国4県日中友好協会が桜千本を寄贈し、今では桜の名所となっていて、桜の季節には多くの市民が参拝する。